2024-11-20
イタリアは名将マルティネッリが立候補
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2024-11-17
セルジュ・パウェルスがベルギー・ナショナルチーム監督に
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2024-10-18
東京での写真展
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2024-10-02
ランカウイの厳しいステージ
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2024-09-28
ゆいの壁
ゆいの壁
1985年のイタリア(1)
友人がフェイスブックの友達申請をしてくれたのだけど、彼の家は昔、自転車チームを持っていて、強豪チームの1つとして知られていました。
ちなみにフェイスブックの名前はG.S.DARIMECです。
僕が初めてイタリアに渡ったのは今から30年前の1985年です。
彼のフェイスブックには当時の写真も多く、まだジロでの怪我から回復していないこともあり、なんだか胸がいっぱいになりました。
それがきっかけで、僕もちょっとだけ、自分のアルバムを見直しました。
写真はちょっと色あせていました。
最初に見たレースです。自分の53年間の人生で、何かを見ていちばん感動したのは、このときです。
ちなみにこのときこの上りの頂で山岳賞をとったのは、のちに世界チャンピオンになるジャンニ・ブーニョでした。ディレッタンテのレース(アマの最高カテゴリー)ですが、スポンサー名をペイントした本物のチームカーを監督が走らせていました。生まれて初めて見た本場のレースでした。全身が震えました。
当時の日本といえば、大人のロードレースでも競輪ヘルメットが義務付けられることが多く、かっこ悪さの極致。ましてスポンサーという概念はかけらもありませんでした。チームカーやニュートラルサポートカーもなく、パンクしたら終わりでした。
つまり、ロードレースではなかったのです。
今、日本のレースでいちばん必要なのは、こうしたチームカーをレースで走らせることなのです。
スポンサーが書かれていないチームのクルマだったり、ニュートラルカーだけのサポートだけでもダメなのです。
それから今回のジロで、石橋くんが出場したのですが、クルマを利用して集団に戻っていく技術を持っていないのが残念でした。
それは日本のロードレースでクルマが走っていない結果でもあるのです。
レースは関係者の多大な尽力で成り立っているなか、いろんなところで警察の許可が下りないのは重々承知してますが、少なくともレースに関わるみんなが問題として強く認識しくことが必要なのです。
ちなみにフェイスブックの名前はG.S.DARIMECです。
僕が初めてイタリアに渡ったのは今から30年前の1985年です。
彼のフェイスブックには当時の写真も多く、まだジロでの怪我から回復していないこともあり、なんだか胸がいっぱいになりました。
それがきっかけで、僕もちょっとだけ、自分のアルバムを見直しました。
写真はちょっと色あせていました。
最初に見たレースです。自分の53年間の人生で、何かを見ていちばん感動したのは、このときです。
ちなみにこのときこの上りの頂で山岳賞をとったのは、のちに世界チャンピオンになるジャンニ・ブーニョでした。ディレッタンテのレース(アマの最高カテゴリー)ですが、スポンサー名をペイントした本物のチームカーを監督が走らせていました。生まれて初めて見た本場のレースでした。全身が震えました。
当時の日本といえば、大人のロードレースでも競輪ヘルメットが義務付けられることが多く、かっこ悪さの極致。ましてスポンサーという概念はかけらもありませんでした。チームカーやニュートラルサポートカーもなく、パンクしたら終わりでした。
つまり、ロードレースではなかったのです。
今、日本のレースでいちばん必要なのは、こうしたチームカーをレースで走らせることなのです。
スポンサーが書かれていないチームのクルマだったり、ニュートラルカーだけのサポートだけでもダメなのです。
それから今回のジロで、石橋くんが出場したのですが、クルマを利用して集団に戻っていく技術を持っていないのが残念でした。
それは日本のロードレースでクルマが走っていない結果でもあるのです。
レースは関係者の多大な尽力で成り立っているなか、いろんなところで警察の許可が下りないのは重々承知してますが、少なくともレースに関わるみんなが問題として強く認識しくことが必要なのです。