2024-11-20
イタリアは名将マルティネッリが立候補
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2024-11-17
セルジュ・パウェルスがベルギー・ナショナルチーム監督に
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2024-10-18
東京での写真展
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2024-10-02
ランカウイの厳しいステージ
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2024-09-28
ゆいの壁
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フラヴィオ・ジュッポーニのこと
先日、日本に帰国する便の中でのことだ。
僕はイタリア女性の隣だった。
挨拶して座席に座ると、イタリア人男性が来て座席を譲ってくれないか聞いて来た。
最初に彼が持ちかけて来たのは窓際だったので、悪いけど断った。
そうしたら、今度は通路側を確保したからと来たので、OKした。
荷物を移動するのが面倒だったけど、別に最初の座席にこだわりがあるわけではなかったので、どうでもよかった。
新しい座席の斜め向かいに立って喋っている男性がいた。
間違いなく、1989年のジロ・ディ・イタリアで2位になったフラヴィオ・ジュッポーニだった。
だけど、全然顔も体型も変わっていないので、逆に人間違いかもしれないと思い、同僚と思われる人物に聞いて見たら、間違いなかった。
声をかけると彼はよく覚えていてくれた。
僕らは1989年に立川の昭和記念公園で開かれたスーパークリテリウムでいっしょだったのだ。
当時、彼の奥さんもいっしょに来日し、仲のいいところを存分に見せつけられたけど、すでに離婚して、彼の隣に座っている人が今の奥さんだという。共に美女である。
彼は現役の時、イタリアで、いや世界で初めて選手をやりながらチームマネージャーとなった。
だけど、チームについたスポンサーはサン・マルコだけで、しばらくは「サン・マルコグループ」というチーム名で活動したけど、まもなく解散に追い込まれた。
人づてに聞いたのは、以前稼いだ金をそのチームにつぎ込んだために、一文無しになったという。
引退後、しばらくはテレビの解説をしていたのでときどきレース会場でいっしょになったが、今から15年以上くらい前には姿を消した。
先日のミラノ〜トリノである元選手が見にきていた。
彼は今、ポジションを出す仕事で忙しくしている。
僕は
「元選手が仕事を見つけて元気にしている姿を見るのはすごくうれしい」というと、満面の笑みで握手してくれた。
プロ選手が仕事を見つけるのは、並大抵のことではないことを僕はよく知っているからだ。
ジロで2位になったジュッポーニだが、僕が機内で声をかけると周囲にいたイタリア人はポカンとしていた。彼が元選手だったことを知らないと言ったのには心底驚いた。
彼は自分の名を切り売りしていなかったのだ。
そんな彼をますます好きになった。
奥さんも彼も、今度ベルガモの家に遊びに来てくれという。
なんだか、最高の再会になった気がした。
写真は1989年のジロ・ディ・イタリア最終日の表彰。今から見ると、とても地味な表彰台だ。左のマリア・ローザがフランスのローラン・フィニョン。真ん中はイタリアの英雄フランチェスコ・モゼール。その右が2位のフラヴィオ・ジュッポーニ。この年の最終ステージはフィレンツェだった。
僕はイタリア女性の隣だった。
挨拶して座席に座ると、イタリア人男性が来て座席を譲ってくれないか聞いて来た。
最初に彼が持ちかけて来たのは窓際だったので、悪いけど断った。
そうしたら、今度は通路側を確保したからと来たので、OKした。
荷物を移動するのが面倒だったけど、別に最初の座席にこだわりがあるわけではなかったので、どうでもよかった。
新しい座席の斜め向かいに立って喋っている男性がいた。
間違いなく、1989年のジロ・ディ・イタリアで2位になったフラヴィオ・ジュッポーニだった。
だけど、全然顔も体型も変わっていないので、逆に人間違いかもしれないと思い、同僚と思われる人物に聞いて見たら、間違いなかった。
声をかけると彼はよく覚えていてくれた。
僕らは1989年に立川の昭和記念公園で開かれたスーパークリテリウムでいっしょだったのだ。
当時、彼の奥さんもいっしょに来日し、仲のいいところを存分に見せつけられたけど、すでに離婚して、彼の隣に座っている人が今の奥さんだという。共に美女である。
彼は現役の時、イタリアで、いや世界で初めて選手をやりながらチームマネージャーとなった。
だけど、チームについたスポンサーはサン・マルコだけで、しばらくは「サン・マルコグループ」というチーム名で活動したけど、まもなく解散に追い込まれた。
人づてに聞いたのは、以前稼いだ金をそのチームにつぎ込んだために、一文無しになったという。
引退後、しばらくはテレビの解説をしていたのでときどきレース会場でいっしょになったが、今から15年以上くらい前には姿を消した。
先日のミラノ〜トリノである元選手が見にきていた。
彼は今、ポジションを出す仕事で忙しくしている。
僕は
「元選手が仕事を見つけて元気にしている姿を見るのはすごくうれしい」というと、満面の笑みで握手してくれた。
プロ選手が仕事を見つけるのは、並大抵のことではないことを僕はよく知っているからだ。
ジロで2位になったジュッポーニだが、僕が機内で声をかけると周囲にいたイタリア人はポカンとしていた。彼が元選手だったことを知らないと言ったのには心底驚いた。
彼は自分の名を切り売りしていなかったのだ。
そんな彼をますます好きになった。
奥さんも彼も、今度ベルガモの家に遊びに来てくれという。
なんだか、最高の再会になった気がした。
写真は1989年のジロ・ディ・イタリア最終日の表彰。今から見ると、とても地味な表彰台だ。左のマリア・ローザがフランスのローラン・フィニョン。真ん中はイタリアの英雄フランチェスコ・モゼール。その右が2位のフラヴィオ・ジュッポーニ。この年の最終ステージはフィレンツェだった。