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JCFステッカーのあるヘルメット
JCFステッカーのあるヘルメット
自転車に乗るときに、ヘルメットが努力義務となった。
ヘルメットと一口に言っても、様々なものがある。
そもそも、自転車用に開発されていない、たとえば土木作業員がかぶるものだってヘルメットである。
今回はその議論はさておき、JCFステッカーである。
聞くところによると、日本のレースに出るには、このステッカーがついたヘルメットでないとダメらしい。

今でこそプロ選手たちもヘルメットが義務化されているけど、2003年のジロ以前のレースまでは基本的に自由だった。つけたい者はつければいいし、つけたくない者はつけなくてもよかった。
基本的にと言ったのは、一時義務化された時期があったからだ。
1989年にイタリアはプロ選手も義務化され、翌々年からは当時の主流だったカスクではなく、いわゆる今と同じハードシェルヘルメットが世界のレースで義務化された。
それからベルギーとオランダは、それよりも20年以上前からヘルメットが義務化されていた。もっとも当時はヘルメットというものが存在しておらず、革の中に詰め物が施されたもので、日本ではカスクと呼ばれていた。
しかし、その後にプロ選手たちのボイコットが相次ぎ、義務化が撤回された経緯がある。それでもベルギーとオランダ国内では継続された。

さて、UCIの規則には、競技の機材の規則を、各国の連盟が決めて良いという条項はないように思う。
ステッカーがついたヘルメットが日本国内で義務であるならば、外国から来た選手が日本で走る時も従うべきである。実際、70年代や80年代、イタリア選手もフランス選手も国籍に関係なくベルギーやオランダで走る時はヘルメットをつけていた。
なぜ来日する選手がJCFのステッカーがなくても走れるのか、僕は不思議で仕方がない。

それから、一般人が自転車に乗るのにヘルメットを買うとなると。このステッカーの有無で購買が左右されるというか、混乱を招く恐れがあるし、実際ネット上ではかなり混乱が見られる。
このあたりを明確にしないと、自転車がそっぽを向かれる可能性もある。
これは抗議ではなく、単純に自分の疑問なのだから、だれか回答できる方がいればぜひ教えていただきたい。
インドゥラインのコメント
インドゥラインのコメント
1991年から5年連続でツール・ド・フランス優勝、92年から2年連続でジロ・ディ・イタリア優勝のミゲル・インドゥラインがこう言っている。
「自分の時代はアルプスもピレネーも、いちばん軽くて39x23と、踏む力が必要だった。今の選手は39x30だって使う。自分もこうしたギアを使って上ってみたかった」

選手たちが軽いギアを使うようになったきっかけは、アームストロングの影響だと思う。ガンによる中断前(ガンによる中断は1996年後半〜1997年フルシーズン)、すでに世界選やツール区間、フレーシュ・ワロンヌを制していたけど、ギアは普通だった。
ところがガンから復帰したあとにール7連勝が始まったのだけど、他の選手のギアとは一見して分かるくらい違っていた。彼の脚の回転だけが他の選手よりも速いのだ。
たしかリエージュ~バストーニュ~リエージュのスタートだったと思うけど、あるチームの監督がチームカーの上に積まれたアームストロングの自転車を舐めるように見回し、そしてクランクの長さを確認していたのを思い出す。声をかけると、このクランク長というのは自転車のペダリングの重要なファクターだから、と言った。
他のチームの監督がわざわざ自転車を見に来るなんて、僕が知る限りレースの世界ではないことで、それほどのペダリング改革だったのだ。
暑い!
暑い!
昨日は39度ありましたが、距離を短くして自転車に乗ってきました。
テレビでさかんに「命に関わる」と言っているけど、ロードレースでこれ以上の状況をこれまで何度も経験してます。
南オーストラリアで1月に行われるツール・ダウンアンダーも40度までいったし、ブエルタ・ア・エスパーニャで南のアンダルシア地方に行くと、ときどきあります。
2019年のツールでは南仏で猛烈な暑さがあり、観客から「先日、45.9度の国内最高記録を作ったガラルグルモンテュはこの近く」と言われたことも。
僕は基本的にオートバイに水をつけることはしないので、まあ大変です。

レースはどんなに暑くてもあるんですよね。寒さでコースが短縮されたことはあったけど、暑さでの変更はないです。
トム・ボーネンがツールのあるステージが終わった後、言ってました。
「今日、もし一般の人が走ったら、全員病院送りになっていたと思うね」
2040年は?
2040年は?
僕がこの仕事を始めたのは1989年。アメリカのグレッグ・レモンが猟銃事故から復活してツールで再び勝ち始めた時だ。
翌90年はイタリア復活となった年で、その先駆けとなったジャンニ・ブーニョがサンレモとジロで勝った。
ただ、レモンもブーニョも強いチームでは走っていなかった。
91年からはミゲル・インドゥラインがツールで5連勝、ジロで2連勝と、一つの時代を築き上げた。タイムトライアルで圧勝してライバルを突き放したが、所属するバネストのチーム力はかなり強かった。ツールにチーム力が大きな影響を与えたのはこのインドゥラインのバネストからで、つまり90年代からだと考えている。
ブーニョは「自分が走っていた頃は力でどうにかなったけど、そのあとからチームの力が問われるようになった」と言っていた。
今現在の自転車はというと、さらにそれが重要になり、チームなしにロードレースは語れなくなった。実際イネオス、UAEなどは非常に強い財力をバックに選手層を厚くして戦果をあげている。

今、終わったばかりの世界選の結果を見ると、そもそも完走者が強豪国の選手だけで、表彰台の3名に至ってはスター選手で占められた。もちろん強豪国ばかりだ。
世界選や五輪は国がチームとなるが、チーム力が成績にそのまま出た。
僕がこの仕事を始めた頃、たとえばメキシコのアルカラ、オーストラリアのアンダーソン、アイルランドのケリーとロウチらが走って素晴らしい成績を出していたが、今、そうした一匹狼はほとんどいない。
例外的に東京五輪ではエクアドルのカラパスがやはり単騎(出場したのは2名)で勝ったが、激しいアップダウンと蒸し暑さが大きく味方した。極端な山岳コースでは選手の脚がモノをいうからだ。
だけど通常のアップダウンコースや平坦では、チーム力が重要なファクターだ。

2040年のプロのロードレースは、おそらくこれがもっと極端になっているだろう。
バジェットの小さいチームは淘汰され、プロチームの年間予算は最低30億〜50億円から。これまで突発的に選手を出してきた国は出走リストからことごとく消える…。
もちろん、自分はこうなることを望んではいないし、30年前の自転車界の方が今よりもずっと好きだ。
だけど本当に世界選や五輪に選手を送り、世界で通用するプロ選手を出したいなら、将来を見据え相当厳しくやっていかないとダメだろう。
コミッセールの仕事
コミッセールの仕事
秋にマレーシアで行われるツール・ド・ランカウイに行くことにしました。
数年ぶりのマレーシアです。
この写真はちょうど10年前の同大会。コミッセールとの記念写真なんだけど、欧州から来ている連中はグランツールやクラシック、世界選でもチーフコミッセールを務めており、実力があります。
今年のオーストラリアでのツール・ダウンアンダーでもこの中の一人がチーフをやっていました。

その大会でイタリアのベッティオールがリーダーだったのだけど、脚が攣って立ち止まったところ、テレビカメラが乗るモトも横で止まって映しました。
これに腹を立てたベッティオールがボトルを投げつけました。撮っていた女性カメラマンはそれでも撮り続けました。
僕らメディアにとっては、選手が我々の仕事をさせない大変な妨害であり、どう見ても退場処分が下されます。
ところがそのコミッセール、退場ではなく、罰金とポイント減点という、非常に甘い処分にしたのです。

数日後、僕はスタートで自分の思いを直接彼に言いました。
ちょうど20年前のブエルタ・ア・エスパーニャで、オンセの監督マノロ・サイスがテレビモトに罵声を浴びせてそれが映像でそのまま放映され、退場処分を受けました。
僕はこの件を持ち出し、20年前で退場なのが、年々処分が厳しくなっているこの時代において、退場にならない理由を聞かせてほしいと言いました。
そのコミッセールは、今、ポイント減点はかなり痛いペナルティだと苦し紛れの言い訳をしてましたが、僕が立ち去った後も現場で腕組みをしたまま考え込んでいました。
相当こたえた面持ちでした。

いずれにせよ、コミッセールには大変な責任があり、一人前になるには経験がものをいう世界です。
しかしながら、彼らの仕事の範囲は限られています。
日本では、コミッセールがレースの中心になると思われているふしがあります。
そうではなく、彼らの仕事はレースが規則に沿って正しく行われているかを判断することであり、レースの運営はレースディレクター以下オーガナイザーによるものなのです。
これを理解するには本場のレースで中に入って経験するしかないのですが、日本には世界の一流レースで仕事をしてきたレースディレクターもコミッセールも皆無なので、昔から全然変わっていないのです。
良い選手を輩出すると同時に、コミッセールやレースディレクターでも世界に通用する人を育てていかなければなりません。本来、それの橋渡しをするのが連盟なのですが、日本にはこれまでまともだった時期が創立以来一度もなく、これまた分かっている人がいないという、とても残念な状況です。
コンタドールのコメント
コンタドールのコメント
アルベルト・コンタドールがこんなことを言っている。
「プロ1年目に走ったブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンのこと。チームメイトにはツッレもいた。あるところにさしかかると、観客から「死ね、降りろ」と言われた。これにより、ちょっとトラウマになったけど、こうした連中を無視するようになった」

実は僕もスペインのレースの観客が好きではない。
嫌な思い出がたくさんある。
レースの現場にいると、その国の良いところと、悪いところがよく見えるものだ。
日本の惨状
日本の惨状
ここ2年半、ほとんど海外には出ず、日本にいました。
そこでしみじみ思ったのは、自転車レースからは隔離されたような国なんですね。
新聞もニュースも、自転車レースのことはほぼ扱いません。
致命的なのは、テレビの地上波でレースの放送がないこと。
やっぱりヨーロッパとは雲泥の差ですね。改めて強く感じました。
逆にこれで自転車の人気が出るなら奇跡です(笑)。

昨年、連盟の中を外から覗いたけど、プロフェッショナルがいないのにびっくりしてしまいました。
だけど今となっては、当たり前ですね。
だって、本物を見る機会がないわけですから。
僕は今でもヨーロッパとコンタクトをとっているし、仲間から連絡も来ます。
でも、日本にいたら育つものも育たない。選手もチームも団体も。一般の人がツール・ド・フランスのことすら知らないのも当たり前だと思います。

アフリカにはまだ行ったことがないのだけど、向こうも日本みたいな感じなのかなあ。
だけど、アフリカからクラシックで優勝する選手も出てきているんですよね...。